相模線 茅ヶ崎・寒川間開通 100周年 記念ウォーク

2021.3.9 更新

相模線は、大正10(1921)年9月、茅ヶ崎ー寒川間が開通しました。
2021年9月、100周年を迎えます。
そこで、茅ヶ崎ー寒川間で、両市町にゆかりの場所を辿るウォーキングコースを考えてみました。
2021年3月9日現在、まだ新型コロナウィルスが収束していないため、『「新しい生活様式」の実践例』を守り、罹患しないように注意を払いながら、歩いてみてはいかがでしょうか。
⇒[「新しい生活様式」の実践例]

[コース]

[地図]      (距離 約8km)

○茅ヶ崎駅(起点)→円蔵寺(茅ヶ崎市十間坂1-3-39)

円蔵寺に、元等覚寺(東覚寺とも)(寒川町岡田4-3)に安置されていた、相模国準四国八十八ケ所第15番札所の弘法大師座像が安置されています。
等覚寺が、明治37年(1904)観護寺と共に安楽寺に併合された際、弘法大師座像は茅ヶ崎市円蔵寺へ移されました。
山門を入ると、左手に六地蔵があり、その奥、塀沿いの樹木に囲まれた中にあります。
右隣に76番札所(円蔵寺)の弘法大師像が安置されています。
[第15番札所のご詠歌]
海ならぬ 岡田の秋の うちなびき 道も渚の 波とこそ見え (「岡田」は寒川町の岡田を指します。)
[第76番札所のご詠歌]
讃岐なる 遠き黄金を 茅ヶ崎の まどかの蔵に 拝む賢さ

円蔵寺
相模国準四国八十八ケ所 第15番、第76番札所

[参考]
相模国準四国八十八ケ所-寒川
https://samkajyoho.exblog.jp/14906890/

○円蔵寺→輪光寺(茅ヶ崎市円蔵2238)→大曲橋(河童徳利の看板)

輪光寺
[茅ヶ崎市・寒川町に所縁の人・モノ]

(1)井上有一
輪光寺本堂に掛かっている額は井上有一の書だそうです。
輪光寺 井上有一書

井上有一は寒川町に家があり、そこで書を書きました。
また、寒川町立寒川中学校や寒川町立旭小学校に勤めました。

(2)河童徳利
河童徳利の看板は大曲橋のたもと、寒川町大曲4丁目4番地に立っています。
間門川伝説 河童徳利 発祥の地

河童が馬に噛みついた所は間門川(現小出川)のどこか不明です。
そこが大曲橋の近くであれば、寒川町に縁があるかもしれません。
大曲橋(旧間門橋)

主人公の三堀家は円蔵・輪光寺の檀家でした。そのため、河童の像が輪光寺本堂右手にあります。
河童 輪光寺

三堀五郎兵衛の墓は静岡県榛原郡川根本町上長尾332の智満寺にあるそうです。{没年:文政七年(1824年)}
「宝暦現来集(ほうりゃくげんらいしゅう)第3集巻21」によれば、本所に住んでいた彫物師猪之助が大山に参詣に行く途中、間角村の百姓三輪堀五郎左衛門宅へ立ち寄り、河童の話を聞いたのは天保2卯年(1831)四月ということです。多少名前が違っていたり、年代が違っていたりします。
(物語と実在したであろう人物が混在しています。河童徳利と称されるものも存在するそうです。)
河童徳利の碑は山門を入ってすぐ左側にあります。
表面に「うたかたを 川の精霊や 獺祭 九一」と彫られています。
河童徳利の碑

裏面に
河童徳利の碑
二百余年の昔西久保間門川で同村の五郎兵衛さん(三堀)が助けてやった河童からお礼に貰った徳利 底をたたかなければ永久に酒が出るといわれた江戸時代以来全国的に有名な伝説の徳利がその後行方不明とな□横浜□千頭(静岡県)と転転していたのを直系円蔵小室由氏妻せきさんが千頭移住の姉ウタさんから譲り受けられ昭和四十二年五月六日六十数年ぶりで再び茅ヶ崎へもどって来た 記念の為めに建てた此の碑は県下に於ても極めて異色ある存在となるであろう
昭和四十二年十一月二十六日 
円蔵老盛会建立
鶴田栄太郎撰文
輪光寺二十三世 広範書
と彫られています。
河童徳利の碑

河童徳利の碑の裏面を見るのであれば、山門左側の入り口から入ると見易いです。
河童徳利の碑裏面への道

[その他の輪光寺境内の見どころ]

(1)三猿庚申塔 {寛永17年(1640年)作} 国内最古の三猿庚申塔ではないかと思われます。
門を入ってすぐ、本殿向かって左手にあります。
三猿庚申塔

(2)相模国準四国八十八か所第19番札所、弘法大師座像。
本殿に向かって右側にあります。
[第19番札所のご詠歌]
良き種を まきし実りや うつせみの 身も世も安き 円蔵じかな
輪光寺・太子堂
第19番札所・弘法大師座像

このコースでは八十八ケ所の内、3カ所を回ることができます。

[参考]
井上有一常設展(寒川総合図書館)
http://www.town.samukawa.kanagawa.jp/soshiki/kyoiku/kyoikusomu/shakaikyoiku/info/1529295976788.html
河童徳利(かっぱどっくり)
https://samkajyoho.exblog.jp/26803675/
かっぱどっくりのルーツを探る
http://www.discove-charita.com/kappaHP/kappa05.htm
曹洞宗 千葉山 智満寺(ちまんじ)(川根本町まちづくり観光協会)
http://www.okuooi.gr.jp/wordpress/20111227/3487/
間門川の河童徳利(2010/05/04) 
https://shonanwalk.blogspot.com/2013/05/blog-post_7.html
重要文化財「輪光寺の庚申塔」
https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1006276.html
鵠沼を巡る千一話 第0084話 相模國準四國八十八箇所
https://kurobe56.net/ks/ks0084.htm

○大曲橋→下大曲神社跡(現在は大曲地域集会所)

大岡越前守は、大岡越前祭で知られる通り、茅ヶ崎市と縁が深いように思われます。
⇒[大岡越前祭]
大岡越前守はじめ、大岡家の菩提寺(浄見寺)は茅ヶ崎市にあります。
一方、大岡越前守が生前知行していたのは、寒川町下大曲村(現在の大曲2丁目)です。
知行経緯は次の通りです。
大岡家と下大曲村

[その他の下大曲神社境内の見どころ]
◇庚申塔 承応2年(1653)作
青面金剛像が彫ってある庚申塔としては日本最古と目される庚申塔です。
下大曲神社-庚申塔は寒川神社・方徳資料館に

[参考]
廃藩置県 下大曲村は西大平県 大岡越前守忠相
https://samkajyoho.exblog.jp/26894579/
下大曲神社の庚申塔
https://samukawalk.jimdofree.com/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88/%E4%B8%8B%E5%A4%A7%E6%9B%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%BA%9A%E7%94%B3%E5%A1%94/

○下大曲神社跡→榎戸(このコースでは中瀬の方を訪ねます)

「榎戸」あるいは「ゑのきと」は所説あります。
(1)中瀬の旧大山道沿いにある大きな榎の木の付近をさし、江戸時代の茶屋の跡。
榎戸 中瀬

(2)懐島(ふところじま)と萩曽祢(はぎぞね)(いずれも茅ヶ崎市)の境界。(具体的な場所は不明)
(1)と(2)では場所が違いますが、両市町に関わることではあります。

[参考]
「ゑのきと」はどこか
https://samukawaguide.blogspot.com/2018/12/blog-post_14.html

○榎戸→下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)

下寺尾廃寺を含む下寺尾官衙遺跡群は国指定の史跡です。
下寺尾廃寺は7世紀後半の創建と考えられ、8世紀中頃以降に大きく改変され、9世紀後半に廃絶しています。
下寺尾に七堂伽藍(下寺尾廃寺)があったと言い出したのは寒川町民の木島鄰(たすく)氏でした。
七堂伽藍(下寺尾廃寺)の礎石が寒川小学校内に残っています。
七堂伽藍の碑
下寺尾官衙遺跡群
発掘で明らかになった七堂伽藍跡

[参考]
下寺尾官衙遺跡群とは(茅ヶ崎市)
https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/hakubutsukan/1010685.html
寒川町と下寺尾官衙遺跡群
https://samukawalk.jimdofree.com/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88/%E4%B8%8B%E5%AF%BA%E5%B0%BE%E5%BB%83%E5%AF%BA-%E4%B8%83%E5%A0%82%E4%BC%BD%E8%97%8D/
下寺尾廃寺(七堂伽藍) 漢河寺(湧河寺) 国分尼寺
https://samukawaguide.blogspot.com/2019/01/blog-post_62.html

 ○下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)→弥生時代の遺跡(旧小出川河道)

旧小出川は現在より少し東側を流れていたようです。
旧小出川はこの辺りを流れていました。

ここから、三遠地方(三河東部、遠江東部)の影響を強く受けた弥生時代後期の土器が発見されています。おそらく、三遠地方からの移住者、あるいはその子孫が作ったと思われます。
三遠地方の影響を強く受けた弥生時代後期の遺跡は、綾瀬市の神崎遺跡、海老名市の本郷遺跡、寒川町の倉見才戸遺跡、岡田遺跡、高田遺跡、茅ヶ崎市の下寺尾遺跡、篠山遺跡などがあります。

[参考]
寒川町 弥生時代 後期 三遠地方からの入植(移住)


○弥生時代の遺跡→寒川駅(終点)