腰掛神社、(宮原)寒川社、寒川神社と伝説

茅ヶ崎市芹沢に次のような伝説があるそうです(*1)。
寒川の大神は、いずれの地方からか相模国へ来て、この芹沢の地にしばらく逗留され、それから間もなく、北西3キロほどの宮原という地に移った。寒川大神はやがて宮原の地も去って、最後に現在寒川神社のあるところに移って来て、長く居住した。

これは相武国の初代国造、茅武彦命{「国造本紀」では弟武彦命(*2)}を神格化しての伝説ではなかろうか、と述べています(*1)。
茅武彦命も西方より来て、相模国の当時の海岸であった香川・西久保あたりに上陸し、まず北方近くの芹沢に滞留し、ついで宮原に移り、三転して寒川におもむいて定住したということも考えられる。してみると寒川大神は、この茅武彦を神格化しての伝説ではなかろうか。

下寺尾廃寺近くを流れる小出川岸で川津遺構が発見されています(*3)。「香川・西久保あたりに上陸し」という仮説は、十分に考えられうることです。

寒川は縄文時代から多くの人々が住んだ痕跡(大蔵東原遺跡、岡田遺跡)が残っている地域でもあります。古くから住むのに適した土地であったことも納得できます。

腰掛神社と(宮原)寒川社が共に寒川神社の末社(枝社)だった(*4)ことと考え合わせると、この伝説は、全く根も葉もないこと、とは言えないような気がします。
芹沢 腰掛神社
宮原 寒川社
寒川神社
地図 腰掛神社、(宮原)寒川社、寒川神社

(私見ですが、寒川神社本殿の真裏に、起源に深く関わりがある神聖な泉として「難波の小池」があります。「難波」とは大阪の古地名です。弟武彦命が西方から来られたことと何か関係がありそうな気がします。)

出典

*1: 菱沼 勇、梅田 義彦 (著)「相模の古社」1971
本書の「茅武彦命」に関する評価は次の通りです。
○寒川町史 9 別編 神社 平成6.11.1 p65
7世紀中期の大化の改新以前の相模国の高座(高倉)地方の在地豪族が特定の神を祀ったことは想定できるであろう。しかし、これをして茅武彦とする指摘も現在のところ推定の域を脱しえない。
○鎌田東二(編)「日本の聖地文化─寒川神社と相模国の古社」2012.3.31 p227
本書では『相模の古社』が推定しているような、神社の起源を弥生時代や古墳時代に見る観点ではなく、さらに古く縄文時代にまで遡るものという見方を採っている。
○寒川神社小誌 平成25.12.1 p17
「国造本紀」に相武国造をみると成務朝、伊勢都彦命の三世孫、茅武彦命を初代として茅ヶ崎に上陸して高座郡の寒川に移住したといいます。

*2:「国造本紀」
相武国造(さがむのくにのみやつこ)。
志賀高穴穂朝。武刺国造祖神伊勢都彦命三世孫弟武彦命定賜国造。
{志賀高穴穂朝:成務天皇(せいむてんのう。日本の第13代天皇。記紀における伝説上の人物。)}
{成務朝の時に、武刺国造(むさしのくにのみやつこ)の祖・伊勢都彦命(いせつひこのみこと)の三世孫の弟武彦命(おとたけひこのみこと)を国造に定められた。}

*3: 茅ヶ崎市「史跡「下寺尾官衙遺跡群」パンフレット」H27(2015).3.31 p14
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1018881.html

*4: 寒川神社 「摂社並境外末社関係書類」 明治6年12月
(寒川文書館>閲覧できる古文書>宮山>10-02 寒川神社文書)
○寒川神社枝社(末社)
腰掛神社寒川大神
高座郡芹沢村高座郡宮原村
祭神寒川神社ニ座ス神寒川彦命
誉田別命
寒川姫命
別当修験宝沢寺修験慈眼寺
「新編相模国風土記稿」によると「本地大日」となっている。「新編相模国風土記稿」によると「寒川社 村の鎮守なり、寒川神社を勧請す、観蔵寺持」となっている。
「慈眼寺」の存在は確認できない。

(注)明治初年の宗教政策により、祭神の変更や合祀など、神社が大幅に変えられてしまった。この資料はこの変更前の状態である。