梶原七家臣(又は梶原七士)

梶原景時の家臣の中に「七家臣(又は七士)」と呼ばれる家来がいたそうです。
この七家臣の伝説は羽黒(愛知県犬山市羽黒)と寒川(高座郡寒川町一之宮)に残っています。
{羽黒の梶原七家臣は「伝説ではなく実在する」という意見もあります。(*1)}

羽黒の梶原七家臣

七家臣の名前は、福富万蔵国秀、福住治部定清、吉野兵衛忠明、丹羽彌右衛門家兼、斎木外記貞住、寺澤右門充重、田山地右京綱原で、今でもその末裔が健在とのことです(*1)。この七家臣が羽黒へ至る経緯は次の通りです。
正治2年(1200)1月20日、景時一行が清見関で討死。一年後建仁元年(1201)の正月、景時他を熱く弔った後、お隅の方(羽黒郷士長谷部左膳の娘)の生地である羽黒へ移住することを決断。同年8月、5歳の豊丸(後の梶原影親)をあるじとして、豊丸の母、お隅の方、七家臣が一之宮を出立。9月無事羽黒へ到着。(*2)
「田中 豊『一宮市北方町 加藤家文書 その二 やまうば物語』平成11年3月」より「絵本鬽物語」

この七家臣の一人、「寺澤右門充重」家の系図と言われるものが残っていて、承久2年(1220)の初代「寺澤右門光忠」から始まっています。(*1)
羽黒には羽黒城(*4)、興禅寺(光善寺)(*5)など、梶原氏ゆかりの史跡が残っています。

寒川の梶原七士

寒川町一之宮に「伝 梶原七士の墓」と呼ばれるところがあります。
伝 梶原七士の墓 寒川町 一之宮

いつからこのように呼ばれるようになったのでしょうか。
「新編相模国風土記稿」には見られません。
今のところ、最も古い資料は、昭和55年(1980)2月に発行された「日本城郭体系 第6巻」で、図「78 梶原景時城要図」の中に「七勇士の墓」と記されています。本文では「七勇士の墓」について触れていません。
昭和55年2月「日本城郭体系 第6巻」より

寒川の梶原七士には次のような伝説が残っています。
景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったもの。

「景時の奥方を守って」とのことですが、「鬽物語実記」(*2)によると、景時の軍が京へ向かって出立した時、館には「景季、景高、景茂三兄弟の妻と景高の子豊丸君(当年4歳)、その乳母隅の方、ならびに梶原七人衆等が留守居役として残っていた」とあり、景時の奥方には触れていません。「鬽物語実記」の信憑性を疑問視する声もありますが、「鬽物語実記」以外の史料でも、「景時の奥方」についての動静は定かではありません。
また、「信州に隠れていた」とあります。どのような縁で「信州」なのか、史料がないため、不明です。
梶原七家臣が一之宮から羽黒へ向かったルートは「甲斐、信濃、美濃を経て」という説があります。(*6)
この移動は、景時一行が駿河で討たれた一年後のことであり、安全のため、景時一行が辿った道とは別のルートを辿ったのかもしれません。
ただし、この「甲斐、信濃、美濃を経て」の出典は不明です。
寒川と羽黒で「信州=信濃」が共通する点は興味深いです。

[出典]

*1: 吉野 守(吉野兵衛忠明の子孫)「梶原内羽黒七人衆と山姥物語」平成元年(1989)1月8日
*2: 胡盧坊臥雲「鬽物語実記」安永6年(1777)
胡盧坊臥雲(別称 浮木庵臥雲)(~1784)約30年間、小牧宿で活躍した宗匠。美濃派の俳人。小牧市常普請(じょうぶしん)本光寺の住職。(*3)
本光寺本堂の右手に臥雲の句碑がある。「唖となる 果はしらずや 蝉の声」
*3: 滝 喜義(きよし)「山姥物語とその史的背景」昭和61年(1986)1月
*4: 磨墨塚史跡公園(するすみづかしせきこうえん) / 犬山市観光協会
https://inuyama.gr.jp/surusumi.html
*5: Web版かじわら / 梶原景時公顕彰会(かじわら会)/ 犬山市羽黒 妙国山興禅寺気付
http://kajiwara.blog16.jp/
*6: 羽黒城
http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/haguro.j/haguro.j.html
更新 2020.11.27

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