「ゑのきと」はどこか

寒川町中瀬にある「えのきど(榎戸)(写真)」は寒川町史で下記のように説明されています。

えのきど 榎戸

中瀬の旧大山道沿いにある大きな榎の木の付近をさし、江戸時代の茶屋の跡と伝えられる。また、国分尼寺から遣わされた尼僧が、下寺尾(茅ヶ崎市)の海円院{七堂伽藍(しちどうがらん)(→国指定史跡 下寺尾官衙遺跡群)}に堂守として通うため、ここに「榎堂」を建てたとの伝承もある。文永8年(1271)5月7日の「二階堂所領注文」には懐島(ふところじま)と萩曽祢(はぎぞね)(いずれも茅ヶ崎市)の境界について、「ゑのきとの河流をたゝしてこれを用ゆべし」との記述があり、これをこの榎戸と比定する説がある。(『町史1』p314)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)

懐島{円蔵・西久保・浜之郷・矢畑・松尾・下町屋・鳥井戸あたり(*)}と萩曽祢(萩園)は小出川を挟んで隣接していますが、中瀬は離れています。従って、「ゑのきと」=「榎戸」だとすると辻褄が合いません。

*:円蔵の歴史
http://enzonet.daiei-kk.com/ayumi/rekisi/rekisi.htm

[推測1]

「ゑのきと」は中瀬の「榎戸」ではなく、大曲の中にあった。

茅ヶ崎市史(*)に「ゑのきとは大曲の小字」と書いてあります。残念ながら、寒川町の小字に「ゑのきと」はないので、小字ではありませんが、文永8年(1271)頃は、大曲の地名に「ゑのきと」があったかもしれません。

*:茅ヶ崎市史1資料編(上)古代・中世・近世 昭和52.10.1 p115[解説]

[推測2]

現在の田端、大曲、一之宮の一部は、懐島や萩曽祢(萩園)に含まれていた。

文永8年(1271)頃の村域は現在と違い、現在の大曲や一之宮は、懐島や萩曽祢(萩園)に含まれていたかもしれません。そうであれば、「ゑのきと」は中瀬の「榎戸」で辻褄が合います。

(地図)