下寺尾廃寺(七堂伽藍) 漢河寺(湧河寺) 国分尼寺

漢河寺は貞観15年(873)から元慶2年(878)まで国分尼寺でした。(日本三代実録)
下寺尾廃寺は漢河寺ではないか、という説があります。その理由は下記の通りです。
・「漢河」は地名の「寒川」と通音である。「寒川郷」と同名で、法名のほかに地名を付すのは古代寺院の一つの類型である。 (「相模の古代史」鈴木靖民 2014.10.15 p128)
・貞観15年(873)頃に相模国分尼寺の機能を移転させるだけの規模を有する寺院は、高倉郡内では下寺尾廃寺以外に確認されていない。 (「古代東国の地方官衙と寺院」「九世紀の地震災害と東国の国分寺・国分尼寺」宮瀧交二 2017.8.25 p83)

このように複数の文献で「下寺尾廃寺は漢河寺ではないか」という説が唱えられてきました。
寒川町内にも下寺尾廃寺=漢河寺=国分尼寺を伺わせる伝説が残っています。
大昔に、下寺尾の小出川の東に大きな寺があった。村人は七堂伽藍と呼んでいた。ここは尼寺で、海老名の国分寺の分れだったとか。秋祭りの太鼓もやんで、冬の初めの頃、ある、突然、七堂伽藍が燃え上がった。七堂伽藍は何一つ残さず、その夜明けまでに全焼した。 (「さむ川その昔を語る」第8集 寒川町郷土研究会 昭和60.11.1 p31 「伝説 『美女塚』」鈴木助晴記)

「秋祭りの太鼓もやんで、冬の初めの頃、ある夜、突然、七堂伽藍が燃え上がった。」とは、元慶2年(878)9月29日夜の大地震のことを指しているのではないかと思われます。旧暦元慶2年(878 )9月29日は新暦だと10月28日になり(*)、「 秋祭りの太鼓もやんで、冬の初めの頃」に符合します。
また、「ここは尼寺で、海老名の国分寺の分れだった」と伝わってきたことを考えると、下寺尾廃寺=漢河寺=国分尼寺を思わせます。

*:「keisan(CASIO)> こよみの計算> 旧暦・暦注」
https://keisan.casio.jp/exec/system/1189993438
による
下寺尾廃寺発掘現場 2018.12

参考

史跡「下寺尾官衙遺跡群」パンフレット 茅ヶ崎市
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1018881.html


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