寒川町 弥生時代 後期 三遠地方からの入植(移住)

寒川町内で弥生時代の遺跡がいくつか発見されています。
寒川町の弥生時代の特長の一つに「入植者の村」があります。
近くでは、神崎遺跡(綾瀬市・国史跡)が知られています。(→[神崎遺跡])
寒川町内の複数の遺跡から、この神崎遺跡と良く似た土器が出土しています。
現在の綾瀬市、寒川町、茅ヶ崎市(篠山遺跡)一帯に、三遠(三河・遠江)地方の人々が入植(または移住)してきて作った(と思われる)土器が沢山残っています。
特に神崎遺跡はその95%が三遠地方の土器そのものと言って良いほど良く似ているそうです(*1)。
寒川町でも倉見才戸遺跡は土器の多くが東三河・西遠江系土器で、他に宮山遺跡、大蔵東原遺跡、岡田遺跡、高田遺跡からも三遠系土器が多く出土しています(*2)。このことから、神崎遺跡と同時期に三遠地方から入植(または移住)してきた人たちの村ではないかと思われています(*1)。

(→[三遠地方の影響を受けた弥生時代後期の遺跡地図])

寒川町 宮山遺跡 弥生土器
出土した土器は、東海地方で用いられたものとよく似た特徴が認められ、当時、この地に住んだ人々が東海地方と深い関わりをもっていたことがうかがわれます。

では、なぜ、この時期に、三遠地方の人々がこの辺りへ入植(または移住)してきたのでしょうか。
次のような説があります(*3)。
「弥生時代後期初頭、相模川流域地方は、富士山の噴火などの自然災害があって、人口が少ない時期があった。一方、三遠地方では集落が大規模化かつ増加して、人口が多い状況にあった。元々、三遠地方と相模川流域地方とは交流があったので、相模川流域の人口が少ないことを知った三遠地方の人々が集団で相模川流域へ移住した。」


三遠地方の影響を受けた土器の一部は、「寒川町文化財学習センター(→[文化財学習センター] )」で見ることができます。



パレススタイル土器
弥生時代後期に尾張・三河地方(現在の愛知県周辺)に分布する、大変に美しい土器です。
その形も多岐にわたり、壺や高坏、ワイングラスのような形状もあります。
白い土で形作り、櫛描きや刺突(しとつ)で文様を描き、それ以外の無文部は赤い塗料で塗られています。
岡田遺跡4号方形周溝墓から出土した展示土器は、代表的なこのスタイルを忠実に模倣したものです。
(三河地方から技術を持った人が寒川町へ入植し作ったのであればオリジナルかな?)



[参考資料]

*1: 綾瀬市教育委員会 2010 「綾瀬市埋蔵文化財調査報告 7 神崎遺跡範囲確認調査報告書」p23
*2: 中村哲也 2002「考古論叢 神奈河 第10集」p49「相模川下流左岸域における弥生時代後期前半の様相─倉見才戸遺跡調査結果の検討─」
*3: 西相模考古学研究会 2002.12.25「考古学リーダー 1 弥生時代のヒトの移動~相模湾から考える~」六一書房