ウォーキングコース:寒川町の18世紀を訪ねて

 ○はじめに

年々台風の大型化、集中豪雨、干ばつなど、自然災害が過酷になっています。地球温暖化が原因(の一つ?)と言われています。地球温暖化を止めるための活動があります。その一つが「1.5度の約束(https://www.unic.or.jp/news_press/info/44283/)」です。産業革命以前と比較して平均気温上昇を「1.5度」以下にしないと、近い将来、取り返しのつかない、深刻な影響が生じることが明らかだからです。(https://www.unic.or.jp/news_press/info/44236/)

地球温暖化が始まった産業革命は1760年代(18世紀)に起こりました。

では、地球温暖化のきっかけになった18世紀、寒川町の人々はどんな生活をしていたのでしょうか。そこで、寒川町に残る18世紀の遺跡を辿って、当時の寒川町の人々の生活を想像してみます。

1. 18世紀の主な出来事

(1)世界

1760年代 産業革命
1776年7月 アメリカ独立宣言
1789年~99年 フランス革命

(2)日本

日本の18世紀は赤穂浪士の討ち入りから始まり、元禄の相模トラフ大地震、天明の相模大地震、宝永の富士山大噴火、享保の大飢饉、天明の大飢饉、といった自然災害が多く、加えて、江戸幕府の浪費に伴う財政難から改革が行われ、と災難が多い世紀だったようです。

徳川吉宗(第8第将軍)が享保の改革を行い、松平定信が寛政の改革を行いましたが、効果は薄く、一揆が増えました。

特に、宝暦-天明期(1751-88)は、前代無類の一揆昂揚期で、この時期、領主、地主による二重の苛酷な収奪にあえいで没落ないしは農業離脱する貧農層が輩出しました。かれらの多くは遊民化し、大都市へ流入しました。(出典:岩波講座 日本歴史 12 近世4)

(3)寒川町

日本国内では、天変地異(旱魃、地震、富士山の噴火)、幕府の財政難など、災害・災難が多く発生した世紀でした。

こうした災害・災難が当時の寒川町にどのような影響を与えたのか、残念ながら史料を発見することはできませんでした。

唯一、それらしき痕跡が残っているのは、1786(天明6)年4月の「小出川筋年々水腐(すいふ)(*1)打続きにつき岡田村他七か村川浚願い」の件です。

これは悪水(あくすい)(*2)組合の嘆願書です。この当時、小出川は排水路として利用されていましたが、川下の方が、川幅が狭いなど、川幅が一定しなかったり、川底が浅くなったりして、大雨の時、田が水没して稲が収穫できなくなる危険性がありました。これを避けるため、川を浚うことを願い出たものです。

天明6年は天明の飢饉の最中。天明の飢饉は天明3年に起こった浅間山の噴火や、これを遠因とする天候不順などが原因となった飢饉です。特に関東地方では大雨による洪水の被害が続きました。

*1水腐(すいふ): 江戸時代、水害で稲が成熟しないこと。
*2悪水(あくすい): 排水のこと。

2. 「寒川町の18世紀」 ウォーキングコース
約4km


(1)寒川町南口
(2)南泉寺(なんせんじ)
六地蔵{1709年(宝永6年)}
 
南泉寺 六地蔵

六地蔵とは、輪廻転生(りんねてんせい、または、りんねてんしょう)六道のそれぞれにあって衆生の苦しみを救う6体の地蔵菩薩(ぼさつ)。①地獄道の檀陀(だんだ)、②餓鬼道の宝珠(ほうじゅ)、③畜生道の宝印、④修羅道の持地(じじ)、⑤人間道の除蓋障(じょがいしょう)、⑥天道(*)の日光の各地蔵菩薩とするが、異説もある。(「デジタル大辞泉」より)
* 天道{=天国(浄土)ではない}: 煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ない。浄土への道が開かれているのは人間道のみ。

巡拝供養塔{1768年(明和5年)}
南泉寺 巡拝供養塔

巡拝供養塔とは、霊場巡拝達成を記念して造られた石塔。寒川町内では、秩父・坂東・西国・四国の観音霊場、伊勢、出羽三山の供養塔が、8基存在する。うち最古のものは倉見観音堂の元文5年(1740)塔で、これは秩父・板東供養塔である。このほか6基(7基?) が18世紀の造立である。また経典を奉納しながら各地の霊場を巡拝する六十六部廻国の達成を記念した六十六部供養塔も、中瀬 景観寺の寛保3年 (1743) 塔を最古として、4基存在する。(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)

巡拝先として多いのは秩父(埼玉県西部)と坂東(足柄峠・碓氷峠の坂の東側)です。四国は1塔、南泉寺しかありません。
秩父、坂東、西国は日本百観音(西国三十三ヵ所(後述)・坂東三十三ヵ所・秩父三十四ヵ所)の一つ。
出羽三山とは、羽黒山、月山、湯殿山の総称で、明治時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山でした。

[コラム]
南泉寺(なんせんじ)
一之宮にある高野山真言宗、もと古義真言宗の寺院。山号は山王山、院号は明王院。『新編相模国風土記稿』によれば開山は善清、開基は「村民五右衛門の先祖」、創建は天正年間(1573~92)とある。善清は墓碑銘によれば寛永8年(1631)12月に没している。本尊は不動明王。江戸時代は岡田村安楽寺末の一之宮門中に所属しており、一之宮の薬師堂を支配していた。(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)

(3)日野屋(入沢家)向店(むかいだな) 
{1737年(元文2年開店)}
向店では、江戸店から仕入れた薬種や砂糖などの荒物を商ったようですが、具体的な商品は不明です。
日野屋向店跡

一時期{文政7年(1824)から天保11年(1840)}、喜兵衛(入澤家の奉公人)に店を譲渡したことがありました。
文政7年(1824)3月発行の「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」に日野屋喜兵衛が扱った商品が掲載されています。
日野屋商品

かゆり香
か(蚊)のきろ(嫌)う事妙也
一包代八銅

元祖家伝 清明丹
たん(痰)せき(咳)の妙薬
一剤代六百銅

ひぜん御湯薬(煎じ薬)
相州一ノ宮の取次
一廻り代三百銅

家伝秘方 龍王湯
打身血ノ道の妙薬
一帖代四十八銅

向店でも、これらに類する商品を販売していたのかもしれません。
特に「ひぜん御湯薬」は「相州一ノ宮の取次」となっていますので、向店で扱っていたと思われます。
「ひぜん御湯薬」の効能は、疥癬(ひぜん・かいせん)、脱肛、痒みなど。
向店開店当初は江戸店から仕入れていたようですから、江戸と一之宮間で頻繁に荷物の運搬が行われていたと思われます。

[コラム]
日野屋
江戸へも進出していた一之宮村の豪農の屋号。入沢伊右衛門と新太郎を世襲名として持つ。同家は、寛文年間(1661~1673)に近江(おうみ)国日野(滋賀県日野町)の商人が一之宮村に定住したものといわれる。江戸に拠点を構え、一之宮村内でも本宅で農業経営や米穀商売などを行うかたわら、向店(むかいだな)を開いて商売を行っていた。このうち江戸店の開店は、享保16年(1731)で、江戸の中でも一等地である本町四丁目に店を構え、薬種・荒物のほか繰綿・木綿・ろうそく・金物などを取り扱っていた。元文2年(1737)には一之宮で向店を開店し、江戸店から仕入れた薬種や砂糖などの荒物を商うようになる。宝暦5年(1755)に江戸の十組問屋(とくみどんや)のひとつ大伝馬町組薬種問屋仲間に加入し、以後は薬種・荒物を主に取り扱うようになる。また、江戸においては町屋敷経営を行い、18世紀前半には一等地の日本橋町人地を中心に、20か所以上の町屋敷を所有し、家賃収入を得ていた。18世紀末年ごろに、同家の支配役であった喜兵衛に江戸店を譲渡してからは、度重なる火災や物価高騰などから経営不振に陥った。天保11年(1840)には再び入沢家が江戸店の経営にあたるが、業績は回復せず、文久元年(1861)には江戸から撤退し、本宅と向店の経営に専念することとなった。天保2年(1831)に渡辺崋山が著した「游相日記(ゆうそうにっき)」には、厚木周辺の豪農として日野屋新太郎の名が記されている。(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)

(4)花川用水 石堰訴訟{1707年(宝永4年)}
花川用水

石堰訴訟は、一之宮村と田端村・萩園村間の用水争論。対象は石堰と平太郎堰。一之宮村が田端村・萩園村へ行く水の量を少なくしたので田端村・萩園村が訴訟を起こした。(裁判結果:石高比で分配)

宝永四年(1707)七月
一之宮村との用水引分け出入につき田端村と萩園村の訴状

一 相州高座郡田端村・萩園村田方用水の儀者、同郡宮山村ニ而堰仕、先規ヨリ用水取来り申候、此組合之村々宮山村・岡田村・市之宮村・田端村・萩園村古高四千石余之場所ニ而堰給米高掛ニ仕、宮山村江渡シ切ニ仕候而累年用水無滞用来り申候御事
一 田端村・萩園村江用水引分ケ申儀ハ、市之宮村下ニ石堰与申場所ヨリ市之宮村田小路と田端村・萩園村江引分ケ申、掛堀ニ而先規ヨリ無構引分ケ来り申候、然所ニ当年用水不足仕候ニ付、市之宮村江申候ハ、村高相応ニ用水引分ケ可申旨度々申候得共、我儘成儀申一円承引不仕、剰掛堀之水口築狭め場所引直シ申、其上田端村堺ニ而漏水も無之候様ニ堰留、大勢番を附置我儘成儀仕、市之宮村田地ニハ水大分ニ引かけ、田端村・萩園村江ハ用水少茂遣シ不申候、依之両村田反別六拾町余□場所渇水仕、早損荒地ニ罷成、大勢之百姓難儀至極仕候御事
(以下略)

[コラム]
花川用水
相模川の支流目久尻川の水を利用した寒川の基幹用水路。江戸時代、宮山村地内に設けられた大柳堰から目久尻川の水を取水し、宮山村以下寒川町内の小谷村・大蔵村・岡田村・中瀬村・大曲村・下大曲村・一之宮村・田端村と茅ヶ崎市内の萩園村の9か村がその受益村むらであった。そのため九ケ村用水ともいい、この川筋を花川と称した。花川用水は、昭和15年(1940)に完成した相模川左岸用水路の一部として再編され、現在も寒川町内の基幹用水路として活用されている。(『町史2』p375、『町史6』p528、『町史15』p68)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)

石堰
一之宮村南端に設けられた花川用水の堰のひとつ。現在の南部文化福祉会館と一之宮愛児園との中間付近にあったと考えられている。平太郎堰によって分水された用水をさらに田端村・萩園村方面へと分水するために設けられた堰で、一之宮村が堰の普請や維持・管理にあたっていた。宝永4年(1707)に一之宮村と田端村・萩園村の間で起こった石堰と平太郎堰をめぐる争論は、花川用水の争論としては最も古いものである。(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)
 
(5)日野屋(入沢家)弁財天堂
{1782年(天明2年)以前(1760年頃?)造立}
日野屋(入沢家)弁財天堂

 一之宮・入沢家の屋敷地内の池の中島にあり、弁天堂として定石どおりの配置である。総欅(けやき)造りで、随所に丹念な彫刻を施し、表面には木目を活かして透明な漆を塗るなど、近世風の華麗な装飾を施して、時代性をよく示した建築である。18世紀半ばごろの建立かと思われる。町指定重要文化財 第15号。(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)→[日野屋 弁財天堂]
 
(6)田端西町 双体道祖神
{1717年(享保2年)造立}
田端西町 双体道祖神

 
これは、寒川町内最古の双体道祖神です。
寒川町は43%(24/56)が双体道祖神です。
双体道祖神は神奈川県が発祥で、日本で一番古い双体道祖神は寛文9年(1669)8月に造立された秦野市戸川原(とかわはら)の双体道祖神ではないか、という説があります。
田端西町の双体道祖神は日本最古ではありませんが、それでも十分に古い類です。
(7)田端西町 地神塔
{1779年(安永8年)造立}
田端西町 地神塔

寒川町に地神塔は7基あります。内6基は文字塔です。武神像は田端の1基のみです。
地神塔とは、地神(堅牢地神)を祀るために造られた石塔です。堅牢地神は十二天の一つで大地を司ります。豊作を祈願するために作られたと思われます。{寒川町は当てはまりませんが、一般的には、天明の大飢饉(1782~1788)後、地神塔が多く作られたようです。}
日本最古の武神像地神塔は群馬県館林市茂林寺(分福茶釜)にある具象塔で元禄七年(1694)造立です。ただし、神礼寺型(*)地神塔の中では、この地神塔が最古ではないかと思われます。
地神像は、片手に花器を持ち、もう片方に戟(げき)を持っています。
由来は「堅牢地天儀軌」ではないかと思われます。
「堅牢地天儀軌」

畫堅牢地神像法 
男天肉色。左手持鉢盛華。右手掌向外。女天白肉色。右手抱當心。左亦抱當股
{堅牢地神(男天)は、左手に花を盛った鉢を持ち、右手は外に向け}
* 神礼寺型:藤沢市西俣野にあった神礼寺が発行した堅牢地神の御影(ぎょえい、ごえい、みかげ、みえい)の姿に類似している。
(8)景観寺
宝篋印塔(1727 享保12年)
景観寺 宝篋印塔

念求が廻国行脚(かいこくあんぎゃ)成就を記念して景観寺境内に建立しました。宝篋印塔の内部には、「六十六部(*)供養奉加帳」が奉納されています。
この奉加帳(納経帳)は現代のご朱印帳に相当します。即ち、寒川町最古と思われるご朱印帳がこの中に入っています。
 
* 六十六部:釈迦入滅後、弥勒菩薩がこの世に現れるまで、法華経を保存しようとする目的で六十六部の法華経を作り、わが国六十六カ国{例:神奈川県=相模国+武蔵国(一部)}の霊場に納めて回ることが行われた。この回国を行う人を六十六部と呼んだ。六十六カ国を回るというよりも、実際は西国巡礼や国分寺などを回ったようである。念求も四国から東北までを廻国行脚した。
相模国の六十六部巡礼地(納経所)は鶴岡八幡宮であった。

銅製半鐘{1728年(享保13年)}
景観寺 半鐘

名号塔{1734年(享保19年)}
景観寺 名号塔

「南無阿弥陀仏」の六字名号を記した石塔。浄土宗系の諸宗により造立された。寒川町内では、中瀬、景観寺の享保19年(1734)塔が最古。
(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)

六十六部供養塔{1743年(寛保3年)}
景観寺 六十六部供養塔

[コラム]
景観寺
中瀬(現一之宮1丁目)にある天台宗の寺院{天文5年(1536)に修造が行われているので、それ以前に建立された}。山号は窪田山、院号は宝珠院。江戸時代は伊勢原市日向にある浄発願寺の末。浄発願寺は弾誓(たんぜい)派の木食(もくじき)(*)の寺として知られていたが、その末寺である景観寺にも享保12年(1727)に建立された廻国記念の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残されている。現在では町域唯一の天台宗寺院であるが、江戸時代には一之宮に如是庵(にょぜあん)もあった。本尊の十一面観音は町指定重要文化財の第1号である。天和3年(1683)本堂修築時の棟札(むなふだ)によれば、天文5年(1536)、慶長10年(1605)、延宝4年(1676)にも修造が行われていたことが知られる。平成15年(2003)、本堂の建て替え工事が行われた。(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)

*木食(もくじき)は、木食戒(穀断ち)(火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を受けた僧のこと。
(9)寒川駅南口

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