倉見 高木清方

天正19年(1591)から相模国高座郡 倉見村を知行した高木清方家に関して、寒川町郷土研究会発行「さむ川その昔を語る 第8集」p104によると、
「清方一代ではなく代々住んでいたと言い伝えられている」
「高木清方(慶長4年(1599)12月14日)の墓の他に、天保10年(1839)12月23日 高木甚右ヱ門次男 高木甚三郎墓(到□院誉浄運寂堂居士霊)がある。」
とのことです。
寛政重修諸家譜では天保10年(1839)は確認できないので、家系を辿ることはできませんでした。
「新編相模国風土記稿」には
○高木氏宅跡 村の北にあり、東西四十二間南北二十四間、今陸田となれり、甚太郎清方徴出されて後采邑なる以て当所に家をうつす、男甚右衛門清本・安右衛門清実・甚兵衛清吉等も俱に此に住すと云ふ、其後擧家、江戸に移りし年月を伝えず、
と書かれています。
「寛政重修諸家譜」によると「清本」の葬地は「麹町の梄岸院」となっています。「清本」本人、またはその子孫が江戸へ移り住んだと思われます。
江戸へ移ったと思われる家系は、清本、助方。
子孫が絶えた家系は、清正、清吉。
ということで、倉見に残った可能性があるのは(清方→清実→)清貞の家系ではないでしょうか。
高木清方家系図

擧家(挙家:きょか); 一家の者全部。{出典:デジタル大辞泉(小学館)}