安土桃山時代の寒川

安土桃山時代は1568年から1600年(異説あり)までの32年間と短い期間ですが、この間に寒川では表1のようなことがありました。
表1
西暦和暦できごと
1569永禄12年武田信玄、小田原攻め。帰路鎌倉八幡宮へ行くと見せかけ寒川神社へ参拝。明珍房宗1537年作兜奉納。信玄芝原で兵を休めた。
1570元亀元年一之宮へ本姓大森菊地下総守藤原泰定母宝篋印塔建立。(2018.8 田端生往寺へ移設)
1573~1592天正年間宮山 興全寺開山(寒川町史10寺院)
1578天正6年・北条氏政、寒川神社修築。
・山角仙千代、寒川神社へ弓と太刀を奉納。
1586天正14年小谷 福泉寺開山(寒川町史10寺院)
1591天正19年高木清方、倉見村知行。
1593文禄2年遠山安吉没。田端、生往寺に葬る。
1596慶長元年・菊地(大森)泰次、生往寺開創。
・慶長期、広田修理、田端・医王院開基。(異説あり)→[田端山 医王院]
1597慶長2年・大森(菊地)泰次、一之宮(泰定母宝篋印塔隣)へ車地蔵建立。
1599慶長4年高木清方没。葬地、倉見・行安寺北東。
高木清方の墓(寒川町倉見)

中でも豊臣秀吉の小田原攻めにより後北条氏が滅び、代わって徳川家康が関東を治めることになったことによる変化が大きかったと思われます。知行地(領地)、陣屋、葬地が寒川(又は近隣)の旗本は表2の通りです。
表2
旗本氏名知行地陣屋葬地
遠山安吉茅ヶ崎市 萩園萩園 満福寺の西側。「トノヤシキ」の地名が残る。田端 生往寺(浄土宗)
高木清方
(倉見 行安寺開基)(兄清秀は徳川十六神将の一人)
寒川町 倉見倉見村の北にあり、東西42間、南北24間、今陸田となれり(新編相模国風土記稿)寒川町 倉見 (陣屋の跡か?{行安寺(浄土宗)の北東}
大岡忠政
(大岡越前守忠相(*)の祖先)
茅ヶ崎市 堤 高田 寒川町 下大曲堤 浄見寺の東南茅ヶ崎市 浄見寺(浄土宗)

*: 南町奉行。大岡越前守忠相の知行地は寒川町 下大曲。
広報ふじさわ2013年7月10日号