旧広田医院 有形文化財 登録

 2023.12.29 更新

旧広田医院の「主屋と門柱および塀」が国登録有形文化財へ登録されました (*1)

旧広田医院 主屋

旧広田医院門柱および塀

旧広田医院の初祖は摂津国、武庫郡、広田郷(西宮市)の住人「広田修理」と言われています(*2)

また、広田邸内に寒川町唯一の芭蕉句碑と井筒があります。

1. 広田修理

修理(しゅり)は、平安時代に設置された令外官で、主に内裏の修理造営を掌るそうです(ウィキペディア)。

関ケ原の合戦で、豊臣側で戦った広田修理は、合戦後この地(一之宮)へ移動したと思われます。→[戦国時代から江戸初期にかけて寒川に住んでいた人びと]

その後、田端に医王院を開基したと伝わります(*2)。→[医王院]

 2.芭蕉句碑

芭蕉句碑

寒川町に句碑は4~7基あると言われています(*3)

確認できた松尾芭蕉の句碑はこの1基のみです(*3)

碑の正面に「涼しさや すくに野松の 枝のかけ」と彫られています。

一説によると、これは「笈日記(おいにっき)」に収められた一句で、本来は「枝のかけ」ではなく「枝の(なり)」である、とのことです(*3)

この碑を建立したのは「慶応3(1867)没の広田孫兵衛則温」とのことです(*3)

もしそうであれば、この碑が建立されたのは、慶応3(1867)以前、ということになります。また、「孫兵衛」は広田修理以降、代々使われた名前で、広田家が江戸初期から幕末まで続いたことがわかります。

{この句は、松尾芭蕉が大山詣での途中に休憩した時に詠んだ、という説があります(*4)。しかし、その出典は不明です。} 

3.井筒

門から入って左側、庭園の中に「石製くり抜き丸型井筒」があります。

次のような刻印があります。

刻印備考
正面妙法
水神

右側面文政拾年□□□
十一月吉上日
伊□□□□□□
文政拾年=1827年


井筒 正面

井筒 右 側面

なお、当初からこの地にあったのか、どこからか移設したものか、不明です。

4.年譜                                                                                                     

出来事 出典 備考
慶長5年(1600)以降広田修理、関ケ原の合戦後、寒川・一之宮へ。 *2
慶長期(1600~1614)広田修理が田端・医王院開基 *2
慶長19年(1614)広田修理卒 医王院墓碑 大阪冬の陣
慶長20年(1615) 大阪夏の陣
寛永7年(1630)広田孫兵衛(修理の子)卒 医王院墓碑
寛文5年(1665)広田孫兵衛由次卒 医王院墓碑
慶応3年(1867)以前広田孫兵衛則温が芭蕉句碑建立 *3
慶応3年(1867)広田孫兵衛則温卒 *3
明治30年(1897)現在の和館の元となる住宅が建築される *5
昭和21年(1946)広田孝基氏の息子である広田孝平氏により洋館部分を改築し広田医院が開院 *5
平成15年(2003)広田医院閉院 *5


[出典]

 *1:  寒川町の文化財について初めて国登録有形文化財(建造物)となりました。2023年08月14日

https://www.town.samukawa.kanagawa.jp/soshiki/kyoiku/kyoikuseisaku/shakaikyoiku/info/bunkazai/17727.html

令和5(2023) 87日付官報 本紙 1035 文部科学省告示 94
https://search.kanpoo.jp/r/20230807h1035p1-2/

文化遺産オンライン│旧広田医院主屋(きゅうひろたいいんおもや)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/527014

*2: 「医王院開山之一考察」 池田銟七 平成12(2000)→[目次]

*3: 「寒川町史調査報告書9 -近現代の石造物- 寒川町 平成11(1999)331日発行

*4: 「郷土さむかわ」第16集「寒川の文化財 美術工芸を中心に」→[目次]

*5: 「広報さむかわ」令和5(2023)8月号


[関連サイト]


tvk│あっぱれ!KANAGAWA大行進 2023年4月29日 寒川町(旧広田医院)

https://www.youtube.com/watch?v=RNYeC-SAy3Q

https://www.tvk-yokohama.com/appare/2023/04/post-839.php