寒川町と大岡家 (大岡越前守)

 下大曲(現大曲2丁目)は、大岡忠政が慶長2年(1597)、徳川家康から拝領(寛政重修諸家譜)して以来、明治維新まで大岡家の領地でした。そのため、大岡家ゆかりと思われる品々が下大曲神社(江戸時代は八幡社と山王社)に残っていました。

寒川町と大岡家
寒川町と大岡家

 【寒川町に残る大岡家ゆかりの品々】

大岡大岡家ゆかりの品々出典
承応2年(1653)9月吉日
忠真(ただざね)
神奈川県内最古(国内最古か?) の青面金剛庚申塔が作られた。(*1)
この庚申塔は山王社の御霊として祀られていた。(*2) (山王信仰と庚申信仰の結びつきによると思われる)。
*1: 寒川町の神奈川県指定重要文化財 下大曲神社の庚申塔
http://www.town.samukawa.kanagawa.jp/chosei/bunkazai/jyuuyou/kanagawaken_shitei/1361327963084.html
*2: 昭和56年.11.3発行「さむ川その昔を語る 第4集」 p68.
承応2年(1653).9.15
忠真
「八幡」と掘られた石祠(下大曲神社所蔵)   
平成6.11.1発行「寒川町史9別編神社」
安永9年(1780)
忠恒(ただつね)
八幡社、十二天社の鐘が鋳造された。(*1)
八幡社の梵鐘には「大岡越前守下大曲氏子中」と彫られていた。(*2) (氏子は15軒)
*1:平成6(1994).11.1発行「寒川町史9別編神社」
*2:昭和56年(1981).11.3発行「さむ川その昔を語る 第4集 」
文政5年(1822).8.16
忠移(ただより)
扁額「日置(へき)流印西派射術」。
大岡越前守 大岡梅之丞」他の文字が書かれていた。武道奨励の為、射術試合の技術優秀者の(西大平)藩士名を連ねて八幡宮へ奉納された扁額である。(下大曲神社所蔵)
昭和56年(1981).11.3発行「さむ川その昔を語る 第4集 」
文政13年(1830)
忠愛(ただよし)
扁額「表面『八幡宮』、裏面『文政13年歳次庚寅初秋 従五位下朝散大夫 藤原忠愛 謹書』」(下大曲神社所蔵)
平成4年(1992).11.1発行「寒川町史11別編美術工芸」

 

【八幡社の創建について】

八幡社の創建時期・創建者に諸説あり、その一つが「大岡越前守忠相が創建した」という説です。しかし、石祠が残っていることから、「承応2年(1653)年、忠真によって創建された」と考えるのが妥当なような気がします。

資料名記述内容出典/関連資料
承応2年
(1653).9.15
石祠
八幡
寒川町史9別編神社
大正14年
(1925).2
下大曲神社復興につき趣意書
八幡神社ハ元和(1615~1624)ノ役後大岡越前ノ守ノ祖先カ勧進
平成6年(1994).11.1発行「寒川町史9別編神社」
(「元和ノ役」とは慶長20年(1615)の大坂夏の陣のことか?)
昭和56年
(1981).6.20
神奈川県神社庁編集・発行「神奈川県神社誌」
享保年間(1716~1736)大岡越前守(忠相)が創建

平成4年
(1992).11.1
寒川町史11別編美術工芸
下大曲神社の説明
享保年間(1716~1736)大岡越前守(忠相)が創建

平成22年
(2010).3.28
旧下大曲神社の碑(大曲地域集会所内)
1700年(元禄13年)に大岡忠相が領主となり 氏神様として「下大曲神社」が建立された 当時は10戸足らずの小さな集落であった
出典不明

下大曲神社跡

旧下大曲神社の碑

大曲神社

大曲神社


【大岡越前守について】

(1)西大平藩の歴代当主は、忠相以来、必ず一度は「越前守」を受領名とした。(2018.12.8豊川市桜ヶ丘ミュージアム発行「大岡越前守忠相と豊川」p30)

(2)寛政重修諸家譜から、忠相以降、少なくとも4人は「越前守」を名乗っていたことがわかります。
忠真    忠右衛門
忠相    忠右衛門、能登守、越前守
忠宜    忠右衛門、紀伊守、能登守、越前守
忠恒    越前守、美濃守、能登守
忠與    忠右衛門、越前守