最終更新日 2019.11.23
生往寺(高座郡寒川町田端)に葵の御紋付き長持ちがあります。ぢうの長持ち。徳川徳松君ゆかりの品 |
この長持ちは寒川町一之宮の菊地家から大森家の養女となり、徳川第五代将軍綱吉の長男、徳松君の御守となった「ぢう」のものです。
ぢうがいつ大森家の養女になったのか不明ですが、徳松君誕生{延宝7年(1679)}の前後であったと思われます。
そうであれば、大森家の当主は頼直なので、頼直の養女になったと思われます。
この長持ちが生往寺へ納められた時の書付に次の通り書かれています。
(「寒川町史11」より)
徳松君様御守ぢう女 剃髪後法名法受 拝領の処 享保二十一辰年正月十五日 法受病死の節 織部祖父兵部少輔代 相州田端村生往寺江相納候事 相違御座候 以上
四月四日 大森織部家来 小野田嘉蔵
四月四日 大森織部家来 小野田嘉蔵
寒川町史11 |
ぢう長持ち書状 |
この長持ちは、徳松君様御守ぢう(剃髪後の法名は法受)が拝領したものだが、享保二十一辰年(1736)正月十五日に法受(ぢう)が病死したので、織部(大森頼征)の祖父兵部少輔(大森邦頼)の代理(大森織部家来の小野田嘉蔵)が生往寺へ納めた。
ということです。
この書付は明和七年寅年(1770)四月四日に書かれたものですが、兵部少輔(邦頼)は宝暦七年(1757)に死亡しているため、長持ちが生往寺へ納められたのは、享保二十一年(1736)からそう遠くない時期だったと思われます。織部(頼征)が大森家を相続したのが宝暦七年(1757)なので、織部(頼征)の時代に、祖父兵部少輔(邦頼)の時代に行われたことを書いたものと思われます。
(下図はクリックすると拡大します)
大森家・菊地家・佐久間家 系図 |
「ぢう」年表 |
徳松君が3歳の時{天和元年(1683)十一月五日}、「髪置(かみおき)の儀」を行っています。これが、七五三の始まり、という説があります。(神社本庁)
https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/gyouji/shichigosan
すなわち、生往寺と七五三は、次のように繋がっています。
生往寺→葵の御紋付き長持ち→ぢう→徳松→七五三
[参考資料]
・池田銟七 1998.11.1「徳松君の御守女ヂウ」(→郷土さむかわ第21集)
・菊地由宣家過去帳{享和2年(1802)9月}(→寒川文書館>資料の探し方>閲覧できる古文書>一之宮)
・寒川町史11 別編 美術工芸 1992.11.1
・寛政重修諸家譜