寒川町中瀬と春田氏

江戸時代、春田氏が慶長2年(1597)から幕末まで中瀬村を知行しました。
{慶長2年(1597)は大岡忠政(大岡越前守の先祖)が下大曲村220石を加増された時でもあります。}
わかっている範囲(*1,2)の春田氏の系図は下記の通りです。

春田吉次(高座他600石知行)―直次―直住―直高―直重―直応(なおまさ)(景観寺観音堂建立)―直義―直亭―?―直温(与八郎)

現在、寒川町に春田氏の業績で残ったものはありませんが、かつて景観寺にあった「観音堂」は春田直応が建立したと伝わります(*3)。

景観寺

この観音堂は「西国札所三十三体の観音模造を安ず(*3)」と書かれていて、「三十三体の観音模造」とは「木造観音三十三応現身立像」を指すものと思われます。
木造観音三十三応現身立像は現在でも景観寺に残っています。

三十三応現身立像

*1:寛政重修諸家譜
*2:寒川町史研究 第27号 2015.3.31 椿田有希子「旗本たちの幕末維新―中瀬村領主、春田与八郎を中心に―」
*3:新編相模国風土記稿
新編相模国風土記稿 中瀬村