倉見(高座郡寒川町) 観音寺と観音堂

観音寺は昭和28年(1953)~29年(1954)まで中倉見(倉見996番地)に存在しました。
その後、その地に観音堂として残り、現在に至っています。
観音寺と観音堂の歴史を下表にまとめてみました。
観音寺と観音堂は併存したのではなく、正式には観音寺だったと思われます。
しかし、観音寺があった辺りに「観音堂」という小字や地名が残っていますので、地元では寺と堂を区別せずに使っていた可能性があります。

時期説明・事象・出典
元文5年(1740)(坂東観音)巡拝供養塔(「寒川町史11別編 美術・工芸」1992)(現在は中倉見の観音堂境内に建っている。観音寺が安政3年以降、中倉見へ再建されたとすれば、この巡拝供養塔は移設されたと思われる。)
天保12年(1841)倉見村 観音寺 行安寺末 本尊は千手観音なり(新編相模国風土記稿)
・観音は昔の八王子街道と永池川の間に建てられていたということです。元の観音は私(森匤敏さん)の畑にありました。それが焼けて石ばかり残っていて石塚と言ってました。そして今、水神さんが建っている場所は観音様(寺?堂?)の焼けた灰があって、灰塚と言ってました。石塚{観音堂(寺?)址}の方はとうとう全部相模鉄道(現JR東日本相模線)にかかってしまいました。(さむ川その昔を語る 第6集 p29)
・観音寺の元の所在地は3786番地であり、現在の青木畳店であったと云います。(さむ川その昔を語る 第8集 p91)
安政3年(1856)観音境内で旅人が暖をとり、火の不始末から観音を焼失した。
(観音寺内に観音堂があった?それとも寺=堂?)
その当時相模川は、度々の洪水でその度に堤防が決壊して観音堂が流出した。
(観音寺が別の建物だったとしても流されたのではないか。観音寺のご本尊が千手観音なら、寺でなく堂に祀ったとは考え難い。また、観音寺が残ったのであれば中倉見へ移転した理由がわからない。よって寺=堂なのではないか。)
洪水に依って観音堂が流出したとの説のほうが私(須田新吉さん大正4年(1915)生まれ)は筋が通るような気がする。
(さむ川その昔を語る 第8集 p95)
{「灰塚」という名前が残っている(第6集p29)ので、「焼けた」という説も捨てがたい。}
岩田伝兵衛さんが(千手観音を)拾い上げたという事です。上がった場所は、今新幹線の下に観音堂淵という地名がある所だそうです。そこは永池川が相模川への出口で一番川幅が広かった所です。それから、今の場所(中倉見)にお堂を建てて安置されたということです。
 (さむ川その昔を語る 第6集 p29)
観音寺が現在地(996番地)に移されたのは、先代長崎和清{長崎喜兵衛(「寒川の文化財」p12)}氏が土地を提供され、御本尊が安置されたと云います。だが、その年月日は明らかではありません。(さむ川その昔を語る 第8集 p97)
安政6年(1859)阿波の国の藩士、玉渕(1837~1891)は安政6年行安寺を尋ね、後に(先代)長崎和清氏の弟の娘婿として迎えられ、長崎玉渕となり、観音堂に住まい、寺子屋を開き学問に志す者を教育したと云う。(さむ川その昔を語る 第8集 p97)
明治5年(1872)~明治37年(1904)・高座郡三十三観音霊場 第16番札所 観音寺
(辻堂茂兵衛資料館蔵「高座郡三十三番観世音詠歌集」)
・私{須田新吉さん大正4年(1915)生まれ}の祖母{須田ミツさん天保8年(1837)生まれ(p88)}は生前観音様は、坂東十八番とよく云っていましたが、碑には記されていません。(さむ川その昔を語る 第8集 p97)
{坂東三十三観音の内第十八番は日光山中禅寺。高座郡三十三観音霊場の内の第16番ではないか。}
明治6年(1873)5月地租改正後の倉見の小字に「観音堂」がある。(*2)
明治6年(1873)8月観音寺境内の畑を借り、公立学舎として徳彊学舎を設立。(「寒川の文化財」寒川町教育委員会 p12 観音堂より)
明治7年(1874)3月徳彊学舎創立。{旭学校の沿革(*1)}
明治12年字中倉見 観音寺
{寺院明細書上(倉見神社蔵)}
昭和24年(1949)現在地にある観音寺ならびに境内は昭和24年の農地改革の折に宝積山行安寺に移管されたものである。(さむ川その昔を語る 第8集 p98)
昭和28年(1953)~29年(1954)宗教法人として神奈川県へ届け出。{この時行安寺と観音寺が(吸収)合併}{これに伴い、観音寺の跡が観音堂になった(?)}

*1:旭学校の沿革
旭学校起源
倉見村ノ長崎玉淵ハ元ト阿波ノ人。出家シテ江戸ニ来タリ後本村観音寺ニ住ス。一時頗ル盛ニシテ近村ヨリ来学スルモノアリ。後学制発布即チ徳彊学舎ト改称シ公立ノ学校ニ充ツ、後倉見学校ト改ム{明治七年三月徳彊学舎創立、九年五月(倉見学校と)改称セリ}
(寒川町史4資料編 近・現代(1) 平成4.11.1 p195)

*2:観音堂
倉見の小字。昭和30年代後半に実施された土地改良以前の3604~3792番地がこれにあたる。西は旧永池川の堤防を境に字上川原と接し、東は字新蔵坊と接している。八王子街道と永池川との間に観音堂(観音寺ではないか)があったといわれており、主要地方道相模原茅ヶ崎線沿いのバス停にその名がのこっている。倉見郵便局、水神宮がある。(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)

観音寺・観音堂の位置

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