地神塔(像)はなぜ花器と戟(げき)を持っているのか

右手か左手かの違いはあるものの、片手に花器を持ち、もう片方に戟(げき)を持つ、というのが、武神の地神塔(像)に共通する姿です。では、なぜこの姿になったのでしょうか。

寒川町田端(西町)の地神塔:右手に戟を持ち、左手に花器を持っている。

花器

「堅牢地天儀軌」または「諸説不同記」に「堅牢地神(男天)は、左手に花を盛った鉢を持ち、右手は外に向け」と書いてあります。これが原点ではないか、との説があります(*1)。

「堅牢地天儀軌」原文(*2)

畫堅牢地神像法 
男天肉色。左手持鉢盛華。右手掌向外。女天白肉色。右手抱當心。左亦抱當股

戟(げき)

「堅牢地天儀軌」や「諸説不同記」では堅牢地神(男天)は右手は開いていて、何も持っていません。現在見られる地神塔(像)が戟を持っているのは、後世、増長天像や毘沙門天像を模して付け加えられたのではないかと思われます(*1)。

寒川町田端の地神塔は何を元に造ったか

寒川町田端(西町)の地神塔は神礼寺の掛け軸の像を模したものではないか、という説があります(*3)。
「神礼寺で堅牢地神を印施したのは御嶽神社に堅牢地神が祀られていることに因る」という説があります(*1)。
新編相模国風土記稿には次のように記されています。
新編相模国風土記稿は天保12年(1841)に成立しました。寒川町田端の地神塔は、その60年以上前に造られました。神礼寺の印施がいつ始まったのか不明です。
寒川町田端(西町)の地神塔の頭の形や戟の形は、神礼寺の掛け軸よりも茅ヶ崎市の宝沢寺(腰掛神社)で発行したものに近いです。宝沢寺がいつ地神の刷り物を発行し始めたのか不明です。
ということで、寒川町田端の地神塔は何を模したのか不明です。

出典

*1: 「藤沢市域の地神塔」服部清道 S44(1969)(藤沢市文化財調査報告書 第5集)
*2: 堅牢地天儀軌 CBETA 電子版(国立台湾大学図書館)
http://buddhism.lib.ntu.edu.tw/BDLM/sutra/chi_pdf/sutra10/T21n1286.pdf
*3:「5 茅ヶ崎とその近くの修験道寺院(廃寺)」
http://chikyodokai.wp.xdomain.jp/

参考

○茅ヶ崎郷土会 平成27年度の史跡・文化財巡り ―修験道の聖地を訪ねて―
http://chikyodokai.wp.xdomain.jp/

○地神信仰雑記  石川博司
http://koktok.web.fc2.com/isikawa/isikawaCD/dijin.htm