興全寺の宝篋印塔

興全寺(写真)[→興全寺]に貞治6年(1367)と貞治7年(1368)の宝篋印塔(写真)があります(*1)。
貞治7年(1367)の宝篋印塔は地蔵講衆によって建てられ、基礎右側に「右為地蔵 講衆逆修」と彫られています(「綾瀬『市史だより』第19号 1996.3.25」より) 。「郷土ちがさき 第13号 昭和50.5.1 p2 大山街道 道標の調査より(5) 佐野弥太郎」によると、
相模にある地蔵信仰を示す石造物で、中世のものは少ない。時代順に並べると次の通り。
1.箱根五輪塔 永仁3年(1295)(国指定重要文化財)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/121637
2.仝 地蔵摩崖仏 正安2年(1300)(国指定重要文化財)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/130134
3.鎌倉浄光明寺地蔵石仏 正和2年(1313)(市指定 有形文化財)
http://kamakurasakura.com/tannpou/amihikijizou.html
4.仝 光明寺地蔵石仏 正中2年(1325)
https://www.yoritomo-japan.com/komyoji-jizo.htm
5.寒川 興全寺 宝篋印塔 貞治7年(1367)
この後は室町中期以降の板碑が数基あるに過ぎない。南北朝時代{延元1/建武3年(1336)~元中9/明徳3年(1392)}のもので、はっきり地蔵講の存在を示すものとして、この興全寺の宝篋印塔は貴重な資料である。

とのことです。
地蔵講は「平安時代末期から鎌倉時代を中心に六波羅蜜寺や祇陀林寺(ぎだりんじ)などで行われた(お地蔵さんの物語 京都市 平成27.3 p32)」ということなので、貞治7年(1367)の地蔵講は、比較的後の時代のものと言えます。

興全寺の開創年は不明ですが、天正年間(1573~1592)と伝えられています(*2)。
従って、宝篋印塔は興全寺が開創される前からこの地にあったか、あるいは、移設されたと思われます。
{昭和50年(1975)2月14日前後まで宝篋印塔は興全寺の門前(写真)にあった。昭和50年(1975)2月14日頃、現在地(本堂右側)へ移設された(*3)}
寒川町宮山 興全寺 本堂
興全寺の宝篋印塔
興全寺の門
[仮説-1]

貞治6年(1367)以前からこの辺りに寺があり、そこへこの宝篋印塔が建てられた。

「鷹倉社寺考(*5)」によると、この辺りに大観音寺という寺があり、天平宝字年間(757~764)読師が住んでいた、とのことです。
読師は国分寺の僧であることから、「吾妻鑑(*6)」第十二 建久三年(1192)八月九日の条の「国分寺 一宮下」に相当する寺が大観音寺である可能性があります。大観音寺が、貞治7年(1368)まで存続していたのであれば、「吾妻鑑」の記述と、この宝篋印塔共に説明がつきます。

[仮説-2]

別の場所から移設された。

『「伝法潅頂記」上巻奥書「伝記編印融法印の研究」下』に「相州一宮瀬河善竜寺」という寺が出てきます(*3*4)。善竜寺がどこにあったのか不明ですが、「幻の寺、善竜寺」によれば、善竜寺は貞治5年(1366)から明応3年(1494)まで約130年、岡田4丁目の墓(写真)の辺りにあり、興全寺の宝篋印塔はここから移設されたのではないか、とのことです。
岡田4丁目の墓。相州一宮瀬河善竜寺の跡か?

[出典]

*1:「寒川町史 11 別編 美術工芸」平成4年(1992)
*2:「寒川町史 10 別編 寺院」平成9年(1997)11月1日
*3:「幻の寺、善竜寺」池田銟七 平成9年(1997)7月
https://sites.google.com/site/samukawabookindex/maboroshizenryu
*4: 「さむ川その昔を語る 第4集」昭和56年(1981)11月3日
https://sites.google.com/site/samukawamukashikataru/di04ji
*5:「鷹倉社寺考」海老名古文書研究会 H15.4.20・・・「鷹倉社寺考」は万治2年(1659)寒川神社の神宮従6位下金子伊予守の編著書
*6:「吾妻鑑」13世紀末か 14世紀初めの成立と思われる。